愛書家日誌

- a bibliophilia journal -

第一書房と月下の一群 - 出版社列伝 その1

f:id:aishokyo:20151013224936j:plain

月下の一群

堀口大學*1による海外詩のアンソロジー「月下の一群」は大正14年に第一書房から出版されました。フランスの近代詩人66人の作品340編を収め、その後の日本の詩壇に大きな影響をあたえました。

また、函入りで背革装、天金がほどこされた豪華な造本も話題になりました。価格も4円80銭(そばが10銭の時代です)になり、売れ行きが心配されましたが、初版1200部は数ヶ月で完売したそうです。

私の持っているのは昭和55年に日本近代文学館/ほるぷ出版が「名著複刻 詩歌文学館 連翹セット」として復刻したものになりますが、本の雰囲気をまずご紹介したいと思います。

f:id:aishokyo:20151013225639j:plain

#箱と表紙:金唐草模様の表紙、金箔押しの背革の装幀は、発行者・長谷川巳之吉の意匠です。

f:id:aishokyo:20151013225803j:plain

金箔押しの背革

f:id:aishokyo:20151013225902j:plain

 #天には天金(ほこりが払いやすくなるように、本の上部に金が薄く塗られていること)がほどこされています。

f:id:aishokyo:20151013230045j:plain

 #口絵は長谷川潔自刻木版 木版手刷安藤友次郎 

f:id:aishokyo:20151013230132j:plain

#ノート用の上質フールス紙大判750ページの本文に、十六葉の別刷の挿絵の肖像入り

f:id:aishokyo:20151013230220j:plain

  • 発行者:長谷川巳之吉
  • 発行所;第一書房
  • 大正十四年九月十一日印刷納本
  • 大正十四年九月十七日第一刷発行
  • 定価四円八拾銭

第一書房と長谷川巳之吉

f:id:aishokyo:20151014190313j:plain

#長谷川巳之吉(はせがわみのきち)1893〜1973

この美しい本を出版した「第一書房」は大正12年(1923)に創業されました。古書に興味がある人なら誰も魅了される美しい革装本の数々をつくりだした、創業者・長谷川巳之吉はどのような人物だったのでしょうか?

長谷川巳之吉は明治26年(1893)に新潟県に生まれました。12歳のとき、高等小学校1年を終了して銀行の見習い給仕となります。出版業に携わったのは岩波書店に勤めていた小倉武雄の紹介で、雑誌「黒潮」の編集に加わったのがきっかけです。その後、大正5年、23歳で「玄文社」に入社して主任になると、自らも詩を書きはじめます。そして巳之吉は出版社の創業を志すようになります。その時の彼の心情は「第一書房設立の趣意」の冒頭に見ることができます。

今日の出版界を見ますと、極めて少数の摯実(しじつ)な人を除きました外は、 多く邪道に陥つて概ね俗流に阿(おもね)り過ぎてゐはしまいかと思はれるのであります。本来出版事業なるものは、単なる一片の営利事業ではなく、それは 実に文化の基礎工事とも云ふべきもので、同時に文化を促進して世を導いて行くべき一種の予言的性質を帯びてゐるものでありますのに、現今の如く日に日に悪化していく出版界の傾向は誠に残念の事と存じます。

創業にあたり、漱石門下の松岡譲*2にアドバイスを受け、音楽評論家の大田黒元雄からは多大な資金援助を受けています。苦労人らしく、しっかりと足元を固めてのスタートでした。

詩集を売ることの難しさを知っていた巳之吉は、美しい装幀という付加価値をつける戦略をとりました*3。本は目論見通り、評判になりましたが、コスト高のため経営は楽ではなかったようです。それでも巳之吉はアカデミズムとは別の場所で、自ら信じる豪華な美しい文学書を出版し続けます。パール・バックの小説「大地」がベストセラーになり、やっと一息つくことができたのは昭和10年(1935)のことでした。

第二次世界大戦と我が闘争

f:id:aishokyo:20151014235437j:plain

#「セルパン」昭和14年8月号

「タバコはけむり、知識は残る、バット買おうか、セルパンか」のキャッチフレーズで第一書房から昭和6年(1931)に創刊された定価10銭の「セルパン*4」は安価で楽しめる文芸誌でした。しかし、昭和14年8月号ではヒットラーの「我が闘争」の特集を組みます。雑誌の半分以上を占める120ページの大特集でした。

f:id:aishokyo:20151014234047j:plain

#「ヒットラア 我が鬪爭」室伏高信 訳:昭和15年6月15日

また、昭和15年(1940)6月25日には、同年9月27日の日独伊三国軍事同盟締結に先駆けて、「我が闘争」の初版(室伏高信訳)を出版します。小林秀雄や国枝史郎の好意的な書評が書かれ、同書は大ベストセラーになります。昭和16年に15刷をこえ、同年10月には36万9千部に達します。第二次大戦中の厳しい軍部の検閲の中でも第一書房は大儲けしたのでした。

突然の廃業と公職追放

昭和19年になると当時50才だった巳之吉は、一切の権利を大日本雄辯會講談社(現在の講談社)に譲渡して突然、第一書房を廃業します。全盛期といえる時期の不可解な事業停止でした。戦中から廃業にいたるまでの巳之吉の心の変化を外からうかがい知ることはできません。

ただ、ヒットラー関連書籍を出したことで戦後公職追放となり、鵠沼に隠遁していた巳之吉に田中冬二らが第一書房の再興を求めた時、巳之吉は決して首を縦に振りませんでした。そして昭和48年になくなるまでの長い晩年を地方文化の振興につくしながら静かに暮らしたのでした。

同社は、21年間に単行本759点、全集叢書22点、雑誌13種を出版しました。それらの多くが西洋製本の研究のもとに生まれた同時代に抜きん出た美しい本でした。

f:id:aishokyo:20151013230257j:plain

*1:堀口大學(ほりぐち だいがく)1892年-1981年:詩人、歌人、フランス文学者。訳詩書は三百点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えました。

*2:最初の出版物は松岡譲の「法城を護る人々」でした。彼は堀口大學とは長岡中学の同期生、それが堀口とのつながりになります。一方で他の漱石門下や岩波茂雄との仲がこじれていた松岡との関係は、そのまま第一書房関係者と東大・岩波書店の敵対関係に持ち込まれてしまいます。堀口作品が長く岩波文庫に収録されなかった理由とされています。

*3:「豪華版」という言葉は彼の造語が一般化したものと言われています。

*4:フランス語で「蛇」の意味です。叡智の象徴。